2014年8月25日月曜日

フラジャイル 弱さからの出発

私は、スポーツ科学部競技スポーツ科学科に所属する教員である。競技スポーツ科学科では、競技スポーツの選手としてあるいはコーチとして必要とされる高度な知識を提供することを目指している。この学科の名称にもなっている競技スポーツは、競い合い勝つことに強い関心がもたれる。当然、この学科に所属する教員と学生の大部分は競技スポーツに“勝つ”ことに意識が向けられる。

競技スポーツに“勝つ”ことは“強い”という言葉に置き換えられる。「強い選手になりたい」「強いチームをつくりたい」という言葉は「勝つ選手になりたい」「勝つチームをつくりたい」と同意語だといえる。

かつて私も“勝つ”こと“強い”ことにを中心軸に据えて、講義内容を決めて授業を展開してきた。ところが、最近(2年ほど前)から“弱さ”ということがしきりに気になり始めた。気になるどころか、“弱さ”がスポーツにとって重要な意味があると考えるようになった。どのように重要かは漠然としているが、“弱さ”が私にとって魅力的な言葉となってきた。

そんなとき、偶然に『フラジャイル 弱さからの出発』(松岡正剛著、ちくま学芸文庫、2011年、第6刷)という本を見つけた。

松岡は、この本の冒頭で『私の熱中は、これまでまったく顧みられてこなかった「弱さ」というものをめぐっている。また、弱さにひそむ「フラジャイルな感覚」をめぐっている。』(p.12)と述べている。私は「弱さ」に熱中する域までは達していないが、その付近でさまよいながら「弱さ」を気にしている。

松岡は『では、われわれはなぜ「弱さ」を無視したり軽視したりするようになってしまったのだろうか。」(p.434)と問いかけている。これは、競技スポーツの成果でも当てはまる問だと思う。スポーツはなぜ「弱さ」を無視したり軽視したりするようになってしまったのだろう。

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