2013年2月3日日曜日

『abさんご』 ひらかなと漢字

何ごとも初体験では戸惑いが多い。

2週間ほど前に注文した『早稲田文学5号』が届いた。第24回早稲田文学新人賞を受賞した黒田夏子さんの『abさんご』を読みたかったからである。

読み始めてすぐに先に進めなくなった。これほどひらかなの多い小説を読むのは初めてだったからである。子どもの本には、ひらかなばかりで書いてあるものがある。でも、それは読みやすい。内容が簡単だというのではない。分かち書きで書かれているからである。ところが、黒田さんの文章は分かち書きがされていない。ひらかなで書かれている単語の切れ目を見つけるのに戸惑ったのである。

ひらかなと漢字が適度な配分で散らばっていると、視覚的に内容のかたまりをとらえやすい。ところが、『abさんご』のように漢字が極端に少なくてひらかなが多い文体で、しかも分かち書きがされていない文章は意味のかたまりをとるのに苦労する。私自身が、視覚的に意味をとらえることに慣らされていたからである。

ひらかなが多いと、視覚的にとらえるよりも、まさに一語ずつ意味をとりながら「読む」という行為が中心となる読み方をするようになるような気がした。会話のような意味の取り方をする、といってよいかもしれない。会話で口から発せられる言葉は、ひらかなで書かれた文章と同じである。

『abさんご』でもう一つの新しい経験は、ありふれた物を複数の単語を組み合わせて表す表現法である。

たとえば、蚊などの虫に刺されないために部屋につるす「蚊帳」を、次のように表現している。

「へやの中のへやのようなやわらかい檻は、かゆみをもたらす小虫の飛来からねむりをまもるために、寝どこ二つがちょうどおさまる大きさで四すみをひもでつられた。」

「なかごろでたわみたれているやさしいてんじょうにつまさきをさわらせようとしたりする。」

私が日ごろ接する文章の多くは、科学論文である。科学論文は、極論をいえば、名詞と動詞の組み合わせで、形容詞や副詞のような主観性のつよい言葉は避けられる。私の文章も科学論文の文体に影響されて、名詞と動詞の多くなる傾向がつよい。黒田さんの文体を参考に、客観性を失わなず情緒のある私なりの文体をつくれたらという思いがしてきた。




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